練馬区が独立!?【練馬の力】


こんばんは。
練馬区議会議員の佐藤力です。

今週の佐藤力チャンネルのテーマは、「練馬区独立記念日」についてです。
8月1日、練馬区は板橋区から分離独立して、今年で75周年を迎えました。
今回は、この練馬区の独立について、お話していきます。


●練馬区独立記念日

さて、8月1日は、練馬区の独立記念日です。
都内で区制のはじまりを「独立」という言葉で表現するのは練馬区だけです。
おそらく日本中でも練馬区だけかもしれません。
意外とこのことを知っている練馬区民の方々も多くはないと思います。

なぜ練馬区は「独立」という言葉を使うのか。

独立という一般的には、平穏無事に行われるものではありません。
人類の歴史を振り返っても、南スーダンやコソボ、東ティモールなど、血と汗によって獲得されてきました。
もちろん血こそ流れていませんが、練馬区は独立達成まで、22年間にわたる苦闘を繰り広げてきました。

そもそもなぜ独立しようとしたのでしょうか。

それは、簡単に言えば、区役所まで遠く、区の手続きに時間も交通費もかかり、住民の不満が絶えなかったからです。
当時の練馬区は、ほとんどが農村地域だったため、役所などの公共機関やインフラはすべて当時発展していた板橋にありました。
今ではインターネット環境があるため、区役所本庁舎に行かなくても、地域の区民事務所で大半の業務は行えますが、当時は事情が異なるため、支所である練馬と石神井の派出所では機能として不十分でした。

そういったわけで、練馬区は、戦時下においてもずっと独立を目指して活動を続けてきました。
そして、終戦後、この独立運動は新たな動きを見せます。

昭和21年、板橋区会で練馬支所管内の分離独立の意見書が可決され、8月8日には、現在の開進第三小学校で「練馬区独立区民大会」が開催されるなど独立運動は活発化していきます。

さらに、独立を求める陳情は、東京都や内務省、連合国軍総司令部(GHQ)などへと続きます。

GHQを訪問した際にも「独立」という言葉を使ったため、「練馬が日本から独立する」と勘違いされ、ピストルを持った米兵に囲まれたとの逸話もあります。

その後、練馬区独立案は板橋区会で可決され、東京都への陳情はさらに活発化してきましたが、その一方で、35区を少しでも圧縮する計画を満たすため、独立は認められないという意見も噴出します。

結局、昭和22年3月15日、東京都は、練馬を板橋区の中に含めた、22区制を施行します。

この後、4月には板橋区会の選挙が行われ、定数45人中、練馬からは19人が当選。
5月3日に日本国憲法が施行され、板橋区会は板橋区議会として再出発します。

そうした中で、運命の7月1日を迎えます。

前日から召集されていた板橋区議会の臨時会において、突如、練馬選出の上野徳次郎区議から「練馬支所・石神井支所管轄区域の区新設促進に関する緊急動議」が提出されます。

これに対して区議会の林信助議長は「上野議員発言許可」とし、議場は騒然となり、10人の議員が議場を退場。
その上で採決が行われ、出席議員42人のうち賛成28、反対4、退場10で動議は「可決」となりました。

こうして8月1日、ついに練馬区は、23番目の一番新しい区として誕生しました。
今年で75周年を迎えます。

練馬区が「独立」という言葉を使う背景には、こうした苦難の歴史があったのです。
これからも、先人の方々の血のにじむ努力の末に誕生したということを忘れず、今があるということに感謝をし、練馬区のさらなる発展に尽力してまいります。

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